神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 宇太志神社



式内宇太志神社(うたしのじんじゃ)は、現在、愛西市大字鵜多須に鎮座する、宇太志神社に比定されている。

神社名は、地名に由来しているが、地名の「宇太須」は、元は「宇太志」であったと考えられている。

「うたし」の語源は「鵜多石」、鵜がとまる石が多かったことに由来するらしい

江戸時代には、「白髭大明神」とされていて、現在は、「お大明神」との俗称がある。

【所在】

愛西市大字鵜多須字下中山27に鎮座する。

江戸時代から鎮座地は変わらないが、古くは、神社の東方約750mのところに、大石が沢山ある「石塚」と称するところににあり、そこが旧社地で、現在地に移ったとの言い伝えがある。

この地は、旧「八開村」にあり、「日本歴史地名体系23」によれば、海部郡の北西部に位置し、西に木曽川、東に佐屋川をひかえる水辺の沼沢地で、この地特有の深田のため、蓮根を特産としている。鯉・鮒・鯰などの川魚をとって津島の市場に送っていた。

【祭神】

祭神は、邑上足尼命(うがたりにのみこと)。

祭神には諸説あるが、式内社調査報告では、「宇太志(鵜太須)に坐す神とするのが最も穏当ではなかろうか」としている。また、「祭神を「ウガタリニノミコト」と訓んでいるが、「邑」の字は誤記と考えられ「莵」の字に改めるべきであり、「足尼」は、「スクネ」と訓むべきである」としている。

「莵上宿禰」は、葛城氏の祖、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)4世の孫。

【由緒】


「飛鳥時代の白鳳元年」というのは、「天武天皇元年」の間違い。

【社殿】


社殿は、東南東向きに建つ。

造営は江戸時代で、拝殿、幣殿、本殿と並ぶ。

覆い屋に守られた本殿は、流造りで、千木・鰹木はない。


屋根瓦などに神紋はみられない。


【参拝記】

2011年11月13日、そのころ運動不足で体重が増える一方だったので、運動不足解消をもくろんで自転車で式内社をいくつかみてきたが、使っていた自転車はサビサビでいつ壊れるかわからないようなしろものなので遠出はむりかなあ、、、ということで、12日に内装3段の自転車を買って、早速13日に旧海部郡の式内社巡りをした。

14歳のときツーリング用のサイクリング車を買って21歳まで、中・高校時代は日帰りの、大学へ入ってからは、九州25日間のサイクリングの放浪に出たりしていたので、何十年ぶりかのサイクリングは楽しい。

実家から庄内川を越えて佐屋街道を西へ、神守の集落の中、吉祥寺の南側に接して「憶感神社」があり、さらに佐屋街道を西へ、日光川を渡ってすぐ北へ少し、諸桑の集落の中、千手寺と接して「諸鍬神社」、そして、またまた佐屋街道を西へ、津島に入って南へ、名鉄尾西線の「日比野」駅の南西ちょっとのところに式内社の「由乃伎神社」、そして、領内川を北上して「鵜多須」の集落を抜けた畑の中に式内社の「宇太志神社」はある。

鳥居をくぐると石造りの透かし塀があるが、彫り物の飾りはない。


そして拝殿まで長い参道が続く。

 

ここからは帰り道で、県道128号を東へ日光川を越えて更に東へ、次の「伊久波神社」へ向かった。